ジャズ・メッセンジャーズ最大の功績者

 ベニー・ゴルソンと言えば、ハードバップ・テナーの名人で、「I Remember Clifford」「Whisper Not」「Stablemates」などの名作曲家。そして、一般的には、スピルバーグ監督の映画『ターミナル』で、大変印象深い本人役を演じたことでも知られているかもしれない。長いキャリアの中で多くの功績を残しているゴルソンだが、最も素晴らしいと思われるのが、実は、あまり言及されることのない、アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズへの貢献なのである。
 アート・ブレイキーは1955年にジャズ・メッセンジャーズを正式にスタートさせた。だが、いま一つ、印象の薄い活動ぶりで人気も出ずに迷走する。録音回数は多かったが、レーベルは定まることなく、あちこちのレーベルに録音した。そこそこ売れるから録音できたという感じなのだ。アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズというバンド名の表記も定まらなかった。バンドの運営に行き詰まったブレイキーは、ゴルソンに相談する。

 ゴルソンはフィラデルフィア出身で、数多くのジャズ仲間がいる世話好きの親分肌タイプだった。ブレイキーの相談に快く応じたゴルソンは、ジャズ・メッセンジャーズの大改革に取りかかる。まずは、メンバーの一新。テナー・サックスは自分、トランペットのリー・モーガン、ピアノのボビー・ティモンズ、ベースのジミー・メリットを抜擢した。リーダーのブレイキー以外は、すべてフィラデルフィアのミュージシャンである。ゴルソンを含め、彼らはジャズ・シーンで頭角を現し始めてまだ数年の若手だった。フィラデルフィアはソウル・ミュージックの土壌もあり、R&Bやファンキーな音楽の資質も持つメンバー達である。ゴルソンとこのメンバーが力を合わせれば、ここからファンキー・ジャズの大ヒット曲「モーニン」や「ブルース・マーチ」などのノリのいいレパートリーが生まれるのは、自然な成り行きだったと言えるだろう。
 ゴルソンはさらに、バンド・メンバーにスーツの着用を義務づけ、時間厳守を徹底して遅刻などルーズさを撤廃させる。いい演奏だけしてればいいというような考え方を変えさせたのだ。大改革である。

 問題は、ブルーノートのオーナー/プロデューサーであるアルフレッド・ライオンを説得することだった。彼はゴルソンの申し出に乗り気ではなかった。ライオンはブレイキーと旧知の仲だが、大改造後のジャズ・メッセンジャーズがどんなものか想像できなかったのだろう。それでライオンをライブに連れて行き、新しいジャズ・メッセンジャーズを見せることにした。新作の録音を即決したという。
 新生アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズはアルバム『モーニン』を録音した。これが大ヒットを記録して、不朽の名作となった。ファンが撮影したブレイキーの顔写真をジャケットに使うことを推したのもゴルソンだった。彼はヨーロッパ・ツアーも提案し、それも大成功を収める。
 ゴルソンは自分の新しいジャズ・グループ、ジャズテットをスタートさせるために短期間でジャズ・メッセンジャーズを去ることになるが、ジャズ・メッセンジャーズのこの後の大躍進は説明するまでもないだろう。アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズが、ハードバップ、メインストリーム・ジャズを牽引する史上名高いジャズ・グループとして35年間にわたって活躍を続けられたのも、ゴルソンの功績の賜物なのである。ブレイキーはゴルソンへの感謝の気持ちを生涯忘れることがなかった。

 

ベニー・ゴルソン by wikipedia