マクリーンの青春

 ジャズ史上、最もしあわせな青春時代を送った男――
 ジャッキー・マクリーンが過ごした十代を知ると、そう表現したくなる。
 
 マクリーンはハーレム生まれ、父はタイニー・ブラッドショーやテディ・ヒルなどと共演したジャズ・ギタリストだった。7歳の時、父が死去。母は再婚し、義父は141丁目8番街でジャズ・レコード店を経営していた。シュガーヒルの南に位置する。ジャッキーは15歳の誕生日に母から贈られたサックスを演奏し始めた。
 16歳頃の話、レコード店を手伝っていたある日のこと。ジャッキーがバド・パウエルの話を店内で誰かとしていると、少年が近づいて来て、「自分はパウエルの弟だ」と名乗った。その言葉を信じなかったので、口論になる。「兄は今入院している。日曜までに退院するので家に来ればいい。その日にまた来る」と言って、少年は帰った。少年の名前はリッチー。マクリーンと同い年で、数年後、クリフォード・ブラウンのグループで活躍し、ブラウンと共に自動車事故で夭折した伝説のピアニストである。
 
 日曜日、約束通りリッチーが店にやって来る。ジャッキーはサックスケースを持って半信半疑で付いて行く。140丁目のセント・ニコラスにある家に連れて行かれると、彼の兄が出てきた。「バド・パウエルは音楽でしか知らないんだ」と言うと、男はピアノに座り演奏する。間違いなく、バド・パウエルだった!
「楽器を出しなよ。何か(曲を)やれるか?」と言われたので、チャーリー・パーカーのブルース「Buzzy」を演奏した。パウエルとジャッキーはすぐに親しくなった。それからパウエルの家にひんぱんに出入りするようになる。家族に頼まれて、ジャズ・クラブへ出かける日は、パウエルの付き添いをすることもあった。セロニアス・モンクの家にもお供した。精神の疾患もあって予測不可能の行動をとるパウエルが、家族は心配だったのだ。
 
 ジャッキーはパウエルからもう一人のアイドル、チャーリー・パーカーを紹介してもらう。ジャッキーは当初テナー・サックスを吹いていた。レスター・ヤングベン・ウェブスターなどをコピーしていたが、パーカーを聴いてからアルト・サックスに持ち替える。パーカーと話もできるようになり、アイドルの出待ちのように、地下鉄から出てくるパーカーを待って、ジャズ・クラブまで一緒に歩いて行くのがうれしかった。少年達に話しかけるパーカーの姿は、哲学者か学校の先生のようだったそうだ。10時半までに家に帰らないと母に叱られるから、時間になると猛ダッシュで地下鉄に乗って帰宅した。
 
 ジャッキーにとってパウエルとパーカーは神様のような存在だった。そんな二人と親しくなって演奏のアドバイスももらえたのだから、これほどしあわせな十代は他にあるだろうか。バドはマイルス・デイヴィスにも紹介してくれた。それがなければ「dig」セッションの参加はなかったかもしれない、とジャッキーは回想している。年代で言えば、ジャッキーの十代後半は、1946年から50年くらいにかけての時期。当時のハーレムは、そんな時代だったのだ。何しろ、高校の頃、ご近所さんで結成した十代のジャズ・バンドには、マクリーン、ケニー・ドリューソニー・ロリンズ(リーダー)、アート・テイラーなどがいたというから、まるで空想上の夢物語ですね。

 

 

若き日のジャッキー・マクリーン

by Blue Note Records