クリード・テイラーの功績

 長年にわたる業績を振り返ると、改めて偉大なジャズ・プロデューサーだったと強く感じるのが、クリード・テイラーである。
 時代の変化に適合する音楽制作で、数多くのジャズ・アルバムをポップス・チャートに送り込んだ。ジャズの潮流がハードバップから、ソウル・ジャズフリー・ジャズ、そしてフュージョンへ移行した1960~70年代。激変期であるにもかかわらず、コンスタントにヒット・アルバムを制作し続けて、ジャズ・シーンを盛り上げた功績はいくら称賛されても足りることはないだろう。
 が、それにもかかわらず、華々しい業績に見合った称賛を受けているとは思えないのが不思議である。
 
 クリード・テイラーは、1954年からベツレヘムでキャリアをスタートさせた。翌年、ABCパラマウントへ移籍。1960年にABCパラマウントを親会社とするジャズ・レーベル、インパルスを設立した。翌年、インパルスはボブ・シールズが後任につき、クリードはヴァーヴと契約する。そして、1966年には、A&Mに移籍し、翌年、自身のレーベルであるCTIを立ち上げた。
 このように目まぐるしくレーベルを移動したわけだが、それは自分の理想を追求するためによりよい環境を選んだ移動であったにすぎないのだ。どのレーベルにおいても素晴らしい業績を残したのは驚くべきことである。
 代表的なアルバムを列記してみよう。

 

1954年
クリス・コナー/バードランドの子守唄(Bethlehem)
(*初プロデュース作、不朽の名作)

1961年
ギル・エヴァンス/アウト・オブ・ザ・クール(Impulse)
(*インパルスを設立し、最初に出した4枚の内の1枚)

1962年
スタン・ゲッツチャーリー・バード/ジャズ・サンバ(Verve)
(*ポピュラー・チャート第1位)

1964年
スタン・ゲッツジョアン・ジルベルト/ゲッツ/ジルベルト(Verve)
(*ポピュラー・チャート第2位)

1964年
ジミー・スミス/ザ・キャット(Verve)
(*ポピュラー・チャート第12位)

1967年
ウェス・モンゴメリー/ア・デイ・イン・ザ・ライフ(CTI)
(*ポピュラー・チャート第13位、ジャズとポップスを融合)

1972年
デオダート/プレリュード(CTI)
(*ポピュラー・チャート第3位)

1974年
グローヴァー・ワシントンJr./ミスター・マジック(Kudu)
(*ポピュラー・チャート10位)

 

 どうです、このラインナップ。ポップスの有名プロデューサーのようなヒット歴である。
 もちろん、大ヒットしたからといっても、ジャズとして聴くべき名盤であるかどうかは別の問題である。ヒットチャートに入らなくても、名盤となったアルバムは数え切れないほどあるものだ。
 だが、ジャズがロックの台頭に押され、ポップスのヒットチャートと縁遠くなった時代に多くのジャズ・アルバムをヒットチャートへ送り込むことによって、一般の音楽リスナーに広くジャズを知り渡らせたのである。その意味では、救世主的な功績ではないだろうか。
 
 音楽制作にかかわる人々なら、ヒット・アルバムを出すことを夢に見ない人はいないだろう。だが、至難の業であることは誰もが知るところだろう。クリード・テイラーのように時代の潮流を乗り越えながら長期間にわたって大ヒット・アルバムを作り続けたジャズ・プロデューサーはたった一人、彼以外にいないのである。
 ミスターC.T.は、もっと称賛されるべし。そう思いませんか?

 

A&M時代のクリード・テイラー

愛してるって二度言えない

「愛してる」って二度言えるか。

 マイルス・デイヴィスは、自分たちのやっている音楽、そしてジャズにおいては、同じ演奏を二度やりたくないという意味で、このように語った。ダウンビート誌のライター、ハワード・マンデルの取材の時だ。
 
 マイルスは「タイム・アフター・タイム」のレコーディングを終えたばかりだった。こう語っている。「スタジオでは何も起きないし、何も感じない。『ポーギーとベス』の時もそうだった。I mean you can't say “I love you” twice. それは感じた時に言うものだ。それに、バラードを演奏するときは何よりも自分と向き合うものだからな」
 スタジオで何度もテイクを重ねたマイルスは、嫌気がさしていたのかもしれない。
 
 この発言は、ジャズメンがリハーサルを嫌うことと同じ意味である。本来、即興演奏を体得するジャズメンにとって、同じ演奏を続けてすることは不可能なのだ。
 愛していると二度続けていえない、という言い方は、非常にマイルスらしい表現である。それだけ、ソロの瞬間瞬間に全身全霊を投影する姿勢が伝わってくる。
 
 マイルス・デイヴィスクインテットのメンバーだったウェイン・ショーターロン・カーターがこの問題について語った記述も見つけた。
 
 ウェインは自己のグループでは一度もリハーサルをせずに活動したという。それをふまえて、「未知のものをどうやってリハーサルするんだ?」と語っている。この言い回しも実にショーターらしい。
 ロン・カーターはシンプルだ。「リハーサルは嫌いだ。いい案が無駄になる。弾きながら修正すればいい」 わかりやすい。
 
 ウェインやロンは1960年代にマイルス・デイヴィスクインテットに在籍した。その際、即興精神を十分すぎるほど会得したのだろう。それだけではなく、ジャズ・アーティストとしての考え方や音楽性などもマイルスから学んだと思われる。

 

1960年代のマイルス・クインテット by wiki

ベースの邪魔をするな~ビバップの誕生

 ホレス・シルヴァーケニー・クラークに「ビバップ・スタイルはどのようにして生まれたのですか?」と訊ねた。クラークはピッツバーグ生まれで、ベース奏者と練習することが多かった。当時、ベース奏者から、「ベースの邪魔をするな、とよく言われて、自分なりのドラム奏法を考えるようになった」と、クラークは答えた。それが、後にビバップと呼ばれるドラム奏法になったのだ。
 
 やがて、ケニー・クラークはニューヨークへ出て、ハーレムのミントンズ・プレイハウスで演奏するようになる。クラークのドラムは評判がよかった。ビッグ・バンドから声がかかっても褒められた。ミントンズは、新しいジャズの実験場のようになって行き、セロニアス・モンクチャーリー・クリスチャンなどに次いで、ディジー・ガレスピーチャーリー・パーカーらもセッションに参加するようになる。そう、クラークやモンクが先に始めたのである。ビバップという言葉は、ミントンズの共同経営者であるテディ・ヒルが使い出した。それを当時学生だったジェリー・ニューマンがジャーナリストに広めた。ジェリーはミントンズの私家録音で名を知られる。戦前まではミントンズ・プレイハウスでしか、ビバップというジャズ用語は使われなかったそうだ。
 
 「ベースの邪魔をするな」という言葉は、ドラムをドコスコ叩いてベースの音を消すなという意味だが、特にバスドラムの音が邪魔をした。ビッグ・バンドのドラムのようにドンドンとバスドラを強打すれば、小編成のバンドでは演奏を台無しにしてしまう。それでクラークはバスドラをソフトに演奏するようになり、さらにキックする棒の先が厚めのフェルト状のドラムペダルを使っている。オスカー・ペティフォードと共演した時、バスドラを使わずにシンバルだけで練習をしていたら、それでやってくれと言われたこともあった。右手はライド・シンバルでアクセントを付けながらレガートを刻み、ハイハットでもリズムキープする。そうすると、左手が自由になる。その左手をどう使うか。ミントンズにはドラマーたちがクラークの左手を見に来た。
 このようにしてビバップのリズムは誕生して、洗練されていったわけである。つまり、ベースの邪魔をするなとは、言い換えれば、お互い共演者の邪魔をするような演奏をしてはいけないということなのだ。小編成のグループでは、楽器同士の会話がセッションであり、会話や協同作業のできない人は、お呼びではないのである。

 

ケニー・クラーク by drummerworld.com

ジャズ・メッセンジャーズ最大の功績者

 ベニー・ゴルソンと言えば、ハードバップ・テナーの名人で、「I Remember Clifford」「Whisper Not」「Stablemates」などの名作曲家。そして、一般的には、スピルバーグ監督の映画『ターミナル』で、大変印象深い本人役を演じたことでも知られているかもしれない。長いキャリアの中で多くの功績を残しているゴルソンだが、最も素晴らしいと思われるのが、実は、あまり言及されることのない、アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズへの貢献なのである。
 アート・ブレイキーは1955年にジャズ・メッセンジャーズを正式にスタートさせた。だが、いま一つ、印象の薄い活動ぶりで人気も出ずに迷走する。録音回数は多かったが、レーベルは定まることなく、あちこちのレーベルに録音した。そこそこ売れるから録音できたという感じなのだ。アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズというバンド名の表記も定まらなかった。バンドの運営に行き詰まったブレイキーは、ゴルソンに相談する。

 ゴルソンはフィラデルフィア出身で、数多くのジャズ仲間がいる世話好きの親分肌タイプだった。ブレイキーの相談に快く応じたゴルソンは、ジャズ・メッセンジャーズの大改革に取りかかる。まずは、メンバーの一新。テナー・サックスは自分、トランペットのリー・モーガン、ピアノのボビー・ティモンズ、ベースのジミー・メリットを抜擢した。リーダーのブレイキー以外は、すべてフィラデルフィアのミュージシャンである。ゴルソンを含め、彼らはジャズ・シーンで頭角を現し始めてまだ数年の若手だった。フィラデルフィアはソウル・ミュージックの土壌もあり、R&Bやファンキーな音楽の資質も持つメンバー達である。ゴルソンとこのメンバーが力を合わせれば、ここからファンキー・ジャズの大ヒット曲「モーニン」や「ブルース・マーチ」などのノリのいいレパートリーが生まれるのは、自然な成り行きだったと言えるだろう。
 ゴルソンはさらに、バンド・メンバーにスーツの着用を義務づけ、時間厳守を徹底して遅刻などルーズさを撤廃させる。いい演奏だけしてればいいというような考え方を変えさせたのだ。大改革である。

 問題は、ブルーノートのオーナー/プロデューサーであるアルフレッド・ライオンを説得することだった。彼はゴルソンの申し出に乗り気ではなかった。ライオンはブレイキーと旧知の仲だが、大改造後のジャズ・メッセンジャーズがどんなものか想像できなかったのだろう。それでライオンをライブに連れて行き、新しいジャズ・メッセンジャーズを見せることにした。新作の録音を即決したという。
 新生アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズはアルバム『モーニン』を録音した。これが大ヒットを記録して、不朽の名作となった。ファンが撮影したブレイキーの顔写真をジャケットに使うことを推したのもゴルソンだった。彼はヨーロッパ・ツアーも提案し、それも大成功を収める。
 ゴルソンは自分の新しいジャズ・グループ、ジャズテットをスタートさせるために短期間でジャズ・メッセンジャーズを去ることになるが、ジャズ・メッセンジャーズのこの後の大躍進は説明するまでもないだろう。アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズが、ハードバップ、メインストリーム・ジャズを牽引する史上名高いジャズ・グループとして35年間にわたって活躍を続けられたのも、ゴルソンの功績の賜物なのである。ブレイキーはゴルソンへの感謝の気持ちを生涯忘れることがなかった。

 

ベニー・ゴルソン by wikipedia

エスクァイアの批評家投票

 アメリカの男性雑誌『エスクァイア』は、批評家投票で楽器別に選出したベスト・ジャズメンを発表した。選ばれたメンバーでオールスター・バンドを編成し、コンサートを実施して大成功を収めている。その批評家投票が実施されたのは、1944年、1945年、1946年。担当編集者が異動になったので、三度で終わった。編集者の名前はアーノルド・ギングリッチ。5年後、彼が編集部に戻ると、再びジャズを取りあげるようになったそうだ。ジャズ・コンサートは第一回が最も盛況だったという。同年の選出メンバーを紹介しよう。各楽器の一位(最初)と二位だ。
 
トランペット ルイ・アームストロング クーティ・ウイリアム
トロンボーン ジャック・ティーガーデン ローレンス・ブラウン
クラリネット ベニー・グッドマン バーニー・ビガード
サックス コールマン・ホーキンス ジョニー・ホッジス
ピアノ アート・テイタム アール・ハインズ
ギター アル・ケーシー オスカー・ムーア
ベース オスカー・ペティフォード ミルト・ヒントン/アル・モーガン(同点)
ドラム シドニー・カトレット コージー・コール
ヴァイヴ レッド・ノーボ ライオネル・ハンプトン(同点)
男性歌手 ルイ・アームストロング レオ・ワトソン
女性歌手 ビリー・ホリデイ ミルドレッド・ベイリー
軍隊推薦 アーティ・ショウ ウィリー・スミス/デイブ・タフ(同点)
 
 1940年代の半ばだから、順当な結果だろう。だが、当時は、黒人系のジャズメンが多いことに驚きがあったという。そのことに驚いてしまうが、そんな時代だったのだ。批評家投票の狙いもそこにあった。読者投票では、アイドル的な人気のミュージシャンが選ばれて、ビリー・ホリデイのような称賛されるべき真に優れたアーティストが正当な評価を受けにくかった。そうした危惧から、2人の批評家、レナード・フェザーとロバート・ゴフィンが立ち上がり、エスクァイアの編集者を説得したのである。そのかいあって、ルイ・アームストロングアート・テイタムビリー・ホリデイなど、偉大なジャズメンが一堂に会すことになった。
 チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーなどは? モダン・ジャズを創始したビバップ勢の名前は見あたらないが、1945年、46年の批評家投票の「ニュー・スター」の項目に、パーカーやガレスピー、ビリー・エクスタインなどの名前が登場する。

 この批評家投票で、もう一つ、印象深かったことがある。批評家達の顔ぶれだ。ジョージ・アヴァキアン、レナード・フェザー、ロバート・ゴフィン、ジョン・ハモンド、ハリー・リム、ボブ・シール、バリー・ウラノフなど、計16名の批評家の投票により選出されている。ジョン・ハモンドとジョージ・アバキアンは、言わずと知れた著名ジャズ・プロデューサー。レナード・フェザーは最も有名なジャズ評論家だろう。ウラノフも有名な批評家で、メトロノーム誌の編集者でもある。1960年代にインパルスで活躍するプロデューサー、ボブ・シールの名前もあることに驚くが、当時まだ22歳だった。優秀な人々は長年にわたって活躍するものだと改めて思った次第である。キーノート、フェイマス・ドアなどのプロデューサーであるハリー・リムも知られているだろう。ロバート・ゴフィンはベルギー出身の音楽学者で、ジャズ関する本格的な本を最初に著したそうだ。アベル・グリーンはバラエティ誌、エリオット・グレナードはビルボード誌の編集者。E.シムズ・キャンベルは、エスクァイアの読者にはおなじみの漫画家である。
 このような多士済々なジャズ好きの著名人達による批評家投票は、真に重要なジャズメンにスポットライトを当てたことにより、世の中のジャズに対する評価や認識に少なからず影響を与えたものと思われる。

 

エスクァイア』1944年2月号より。投票結果の一部

Jazz Messengersの表記

 バンドを去来したメンバーをはじめ、短期間の共演やゲスト参加を合計すると、200人を超えるというアート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズ。35年間にわたって、ハードバップ・シーンを牽引したジャズ・メッセンジャーズだが、当初は、グループ名が固定化し有名になるまで時間がかかった。
 軌道に乗るまでの、バンド名の変遷を辿ってみよう。


1947.12.22
*「Art Blakey and his Messengers」という名義でブルーノートに録音

2曲入りの10インチ盤を2枚録音した。「Art Blakey's Messengers」という表記も後の再発で使われる
同年、「Seventeen Messengers」というビッグバンドを率いる。活動は散発的だった

1955.11.23
*『The Jazz Messengers at The Cafe Bohemia』(Blue Note)録音
公式に「Jazz Messengers」という名前が使われた最初の作品。リーダー名の表記はない。ブレイキーが以前使ったMessengersにJazzを加える提案をしたのはホレス・シルヴァー。実質上、当初はブレイキーとシルヴァーの双頭バンドだった
ドナルド・バード(tp)、ハンク・モブレー(ts)、ホレス・シルヴァー(p)、ダグ・ワトキンス(b)、アート・ブレイキー(ds)

1956.04.06, 05.04
*『The Jazz Messengers』(Columbia)録音
最初のスタジオ録音。56年5月4日のセッションは、シルヴァー参加の最後の録音。シルヴァーはモブレーやワトキンスを連れて独立、ホレス・シルヴァークインテットを結成する。ブレイキーはジャズ・メッセンジャーズを再編成

1956.07
*『Horace Silver and The Jazz Messengers』(Blue Note)発売
2年前の作品『Horace Silver Quintet Volume 3』『同 Volume 4』を合体、タイトルをこれに変更して出した。紛らわしいよね

1956.12.12,12.13
*『Hard Bop/The Jazz Messengers』(Columbia)録音
ジャッキー・マクリーン(as)加入。これ以降の数年間、ビル・ハードマン(tp)、サム・ドッケリー(p)、スパンキー・デブレスト(b)が参加。サックス以外はメンバーが地味な時期だ

1957.01.14,02.11
*『Ritual:The Jazz Messengers Featuring Art Blakey』(Pacific Jazz)録音
タイトルにFeaturingでArt Blakeyの名前が入る

1957.03.13
*『Selections From Lerner and Loewe's/Art Blakey's Jazz Messengers』(Vik)録音
「Art Blakey's Jazz Messengers」表記でバンド名がジャケットに入るが、裏ジャケなどは「Jazz Messengers」表記のみ。マクリーンに代わって、ジョニー・グリフィン(ds)加入

1957.04.08
*『A Night in Tunisia/Art Blakey's Jazz Messengers』(Vik)録音
「Art Blakey's Jazz Messengers」の表記がジャケット、裏ジャケ、センター・レーベルにも入る

1957.05.13
*『Cu-Bop/Art Blakey and his Jazz Messengers』(Jubilee)録音
「Art Blakey and his Jazz Messengers」表記。hisが入る。裏ジャケとセンター・レーベルは「Art Blakey's Jazz Messengers」だった

1957.10.09,10.11
*『Hard Drive/Art Blakey:The Jazz Messengers』(Bethlehem)録音
こんな表記もあった。コロン入り

1958.10.30
*『Moanin'/Art Blakey and The Jazz Messengers』(Blue Note)録音
バンド・メンバーを総入れ替え。このアルバムがヒットして、怒涛の快進撃が始まる。これ以降、「Art Blakey and The Jazz Messengers」という表記が定着することになる。andが&になったり、日本の場合はTheが入らなかったりする
リー・モーガン(tp)、ベニー・ゴルソン(ts)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)、アート・ブレイキー(ds)

 

 以上が、Art Blakey and The Jazz Messengersというグループ名が定着するまでの変遷である。日本語表記では、私もTheを省く。ザ・をいつも入れるのはわずらわしいからね。
 こうして、1955年のカフェ・ボヘミアで誕生したJazz Messengersは、紆余曲折を経て、3年後の『モーニン』が人気を博してようやくバンド名が定着した。『モーニン』の成功に貢献したのはベニー・ゴルソンだった。ゴルソンはジャズ・メッセンジャーズの最大の功労者である。その件はゴルソンの項目(「Messengers最大の功績者」)で紹介する。

 

『Moanin'/Art Blakey and The Jazz Messengers

クールなロマンティシズム

 ビル・エヴァンスの音楽を表現する言葉で悩むことがある。ロマンティックやロマンティシズムという言葉の使い方が難しいのだ。
 
 ロマンティック 軽くて弱々しい感じがする
 ロマンティシズム 言葉自体はサマになっているが、何だか使いにくい
 
 リリカルやリリシズムも同じだ。
 それで、あれこれ迷って、自分が使った表現が「硬質のロマンティシズム」だった。ロマンティックであっても弱々しさはなく、強い印象を受ける表現だ。でも、何があっても揺るがない自己、という感じではあるけれど、硬くて金属質な印象を与える。
 
 そんな時に出会ったのが、この表現だった。
 クールなロマンティシズム

 なるほど、これはいい。ビル・エヴァンスの演奏における、抑制感や自分を律する感じや美的なものをうまく表現できていると思った。ロマンティックは、感情や情緒の動きを示す言葉であるのに対して、感情に左右されない理知的な、クールという冷静な感覚と結びつけている。
 この言葉は、『ビル・エヴァンス-ジャズ・ピアニストの肖像』(原題『Bill Evans - How My Heart Sings』)で出会った。著者はピーター・ペッティンガー、訳者は相川京子。
 原文では、この箇所は「a cooler romanticism」となっている。冷却器みたいだわね。この場合のcoolerは比較級、more coolということなんだろうけど。冷静で、落ち着いた、張り詰めた空気感のある、あるいは、かっこいい、ロマンティックな演奏なのである。
 
 クールという言葉はジャズではよく使われる。そのクールという形容詞とロマンティシズムをドッキングさせたのが素晴らしい。
 「形容詞+名詞」
 これは、その形容詞の持つイメージと名詞の持つイメージが離れているほど、強いインパクトを与える。でも、イメージが正反対のものをくっつければいいと思って探しても、うまくいかないものだ。うまくはまる組み合わせを試していたら、日が暮れてしまいそう。
 
 とはいえ、「クールなロマンティシズム」が至上の組み合わせなのかどうか、もっとドンピシャの表現がありそうな気もしている。探してみませんか。

 

Bill Evans 1964 by wikipedia