アストラッドの心残り

 ビートルズの「イエスタデイ」に次いで、世界で最もカバーされた「イパネマの娘」(by Performing Songwriter Magazine)。その英語バージョンを歌って、世界的に大ヒットさせたアストラッド・ジルベルトが世を去った。彼女の足跡をふり返ってみた時、本国ブラジルで最後まで評価されなかったことは、やはり今となっては残念に思われる。
 
 アストラッドは夫のジョアン・ジルベルトに連れ立って渡米し、スタン・ゲッツジョアンのアルバム『ゲッツ/ジルベルト』にたまたま参加した。その時に録音された「イパネマの娘」は、ジョアンがポルトガル語、アストラッドが英語で歌った。アストラッドの英語バージョンのみが収録されたシングルもリリースされる。そして、アルバムもシングルも世界的に大ヒットする。それまでは、ブラジルでボサノヴァ仲間たちとステージなどで歌うことがあっても、プロとしての経験がなかったアストラッドは、一躍世界的なスターになったのだ。
 大ヒットした翌年、1965年にアストラッドは凱旋帰国する。サンパウロでコンサートを実施したのだが、あろうことか、ブラジルの批評家達から酷評を食らってしまう。ブーイングさえ受けたと著書に記した人もいた。アストラッドはそれに反論、拍手を浴び、アンコールにも応じた、と訴えた。彼女はこの帰国公演でひどくショックを受けてしまい、これ以降、ブラジルで公演を行うことはなかった。
 
 アストラッドが母国ブラジルで不評だった理由は、いくつか考えられる。「祖国を捨てた」「“イパネマの娘”のヒットは運がよかっただけ」「ブラジル人は“アメリカのボサノヴァ”を嫌う」などだ。そういえば、「イパネマの娘」作曲者のアントニオ・カルロス・ジョビンでさえ、アメリカに移住したことで帰国時に不当に扱われることがあったようだ。
 クールで、甘くささやくように歌うボーカルが嫌われたわけではない。それが嫌いな人なら、アストラッドが強く影響を受けたと語る最初の夫、ジョアン・ジルベルトや、十代の頃から憧れだったチェット・ベイカーのボーカルにも興味がないだろう。そして、彼女のボーカルは、シャーデーバーシア、トレイシー・ソーン(エブリシング・バッド・ザ・ガール)、ステイシー・ケントなど多くの歌手に影響を与えている。

 

 今となっては、時すでに遅しではあるが、アストラッドのボーカルと音楽が母国で正当な評価と人気を得る日が、いつか来るのだろうか。死後に高く評価された画家のように。彼女の魂は今も故郷にあるに違いない。

 

astrud gilberto by wikipedia

 

ラファロの「対位法的なジャズ」

 ビル・エヴァンススコット・ラファロ。この2人の共演は、史上最強の化学反応を起こした。最強という表現を慎重に選んだが、それでやはり間違いはない。彼らは他にも多くのミュージシャンと共演したが、エヴァンスとラファロの共演だけが、あまりにも、あまりにも特別なものとなり、途轍もなく優れた芸術を生み出したのだ。あれは一体、どういうことだったんだろう。
 
 エヴァンスもラファロも共通しているのは、お互い相手を唯一の存在と感じたことだ。ラファロは共演相手に合わせた演奏をした。エヴァンスが共演者の場合は、思い存分、自分の思い描く演奏に没頭することができた。この点がすごく重要である。ラファロはベースで管楽器やギターのように素速くメロディーを奏でることができた。それが彼の演奏の最大の特徴である。パーシー・ヒースが、「ベースでそんなに複雑な演奏をするのなら、なぜギターを弾かないんだ」と言ったくらいだ。
 もちろん、ただ超絶技巧を売りものにしたベース奏者ではない。では、ラファロのベースは、どうすごいのか。それを探っていたら、妹のHelene LaFaro-Fernandezが書いた『Jade Visions:The Life and Music of Scott LaFaro』に、こんな記述を見つけた。
 
「彼は"偉大なる低音耳(Great Bass Ear)"と呼ばれるものを持っていて、コードのどの音がベースラインを形成し、前方への動きを生み出すものなのかを感じ取っていました。(中略)ビル・エヴァンスと同時にメロディアスかつリズミカルに即興演奏することができ、ベース・パートがリズム、メロディー、ハーモニーといった音楽のすべての要素と相互作用するという、ジャズ・ベースの新しい概念を作り出した。ドラマーがリズムを提供し、驚異的で革新的な対位法的なジャズ(Contrapuntal Jazz)が誕生したのです」

 イサカ・カレッジのラファロのクラスメートで、ピアニストで大学教授になったフィル・クラインの言葉だ。
 
 この「対位法的なジャズ」という言葉で、僕はエヴァンスとラファロの演奏の間で起こっている現象をイメージできるようになった。対位法的な即興演奏で、ラファロはエヴァンスと対話や会話をおこなっているのだ。もちろん、エヴァンス・トリオは3人が対等に即興演奏する三位一体のジャズがコンセプトであり、ドラムのポール・モチアンも彼以外では考えられないメンバーであった。モチアンは、「(このトリオは)マジック。すべてがフィットし、音楽は美しかった。私達は、"ワン・ボイス"だった」と語っている。
 他の人がこのようなコンセプトで演奏したとしても、エヴァンス・トリオのような成功を収めるとはとても思えない。エヴァンスとラファロの組み合わせでないと生まれなかったジャズだ。ラファロは超絶技巧を身に付けていたばかりか、お互いが刺激を与え合いながら対話し、美しく創造性溢れる即興演奏をすることができたのである。

 エヴァンスはマイルス・バンドを脱退後、すぐにピアノ・トリオを結成するためにベイジン・ストリート・イーストで何人ものベースとドラムを試すことにする。モチアンとは以前から交流があり、そこに近所でギグをやっていて、エヴァンスに興味を持っていたラファロが加わった時、伝説が始まった。それが1959年11月後半のことだ。スコットがモンクのタウンホール・コンサート(11月28日)を終えてから、ビル・エヴァンス・トリオは正式にスタートした。グリニッジ・ヴィレッジのショープレイスで約1ヵ月演奏し、12月28日に『ポートレイト・イン・ジャズ』を録音する。それから、スコットが世を去るまでの約19ヶ月の間に、『エクスプロレイションズ』『ワルツ・フォー・デビー』『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を録音した。その4枚のアルバムで、ビル・エヴァンス・トリオはピアノ・トリオ史上最も高くそびえる山頂へ到達した。

 

スコット・ラファロ

photo courtesy of Helene LaFaro-Hernández

 

誰よりも、大きな音

 どうして、こんなに大きな音が出るのだろう。ジョン・コルトレーンの演奏を聴いて、何度そう思ったことか知れない。その大きさを何かに例えるならば、陳腐なんだけど富士山のようなものなのだ。遠くから見れば、辺り一帯、平野のような視界の中、突如、巨大な山容が姿を現した時は、全身に冷ややかな感触が走るような感動をおぼえるものだ。

 コルトレーンサウンドも同じであった。その印象は、マイルス・デイヴィスクインテットに加入したデビュー当時から変わらない。なぜ、こんなに音が大きいのだろう、大きな音を出せるのだろう。その理由を知りたくて、調べてみた。本『John Coltrane: His Life and Music』にこんな記述を見つけた。

 

 " I was in the habit of using extremely hard reeds, number nine, because I wanted to have a big, solid sound. And while playing with Monk I tried using number four. I very soon realized that the number nine limited my possibilities and reduced my stamina:with the four I had a volubility that made me give up the nine! "

 

「私は、大きくしっかりとした音を出したかった。9番の非常に硬いリードを使う習慣があったが、モンクと一緒に演奏したとき、4番を使ってみた。それで、9番では可能性が制限され、スタミナが低下してしまうことに気づいたんだ。9番をあきらめさせるほど、4番なら雄弁な音を出すことができたよ」

 

 この他、コルトレーンが十代の頃から、Big Soundに憧憬を抱き、大きな音を自分のものとするために努力してきたことがわかる記述をいくつか探せた。

 コルトレーンと同郷で年齢も楽器も同じだったジミー・ヒースは、十代の頃のコルトレーンが大変な努力家だったと語っている。「コルトレーンは母親と二人暮らしで、エアコンのない長屋で汗だくになって、一日中練習していた。私の知る限り、あれほど練習する人はいなかった。リードを血で赤くしていた時もあったよ」

 それに加えて、自分の理想とする音を出すために、リードとマウスピースの組み合わせの追求に非常に熱心だった。アトランティックのエンジニアが、「ジョンはいつもレコーディングの一時間前に来た。リードとマウスピースをいくつも変えながら試して、一番しっくりくる組み合わせを探した」と語っている。専門家にマウスピースをサンディング(ヤスリで磨くこと)してもらったり、マウスピースにリードを固定するリガチャー(留め具)を何種類も試したりすることもあったそうだ。

 このようにして、精神とツールの両面から、コルトレーンは大きな音を出すための探求を生涯続けたのである。何よりも重要なのは精神面と思われる。大きな音、それは単に物理的な大きさのことでは、もちろんない。精神や内面の大きさ、それが音となって現れてくるのだ。「ブルー・トレイン」や「至上の愛」などの楽想や精神世界、推し測られる人間性の大きさを思えば、それは明かだろう。

 〝文は人なり〟と言うけれど、〝音もまた人なり〟なのである。

 

『Plays the Blues』のLP盤のジャケット。サックスがツヤやか

 

ブレイキーと西アフリカ

 自分はどこからやって来たのか。どういう組織や制度の中で育ったのか。それを知ることで本当の自分と向かい合える。祖父と曾祖父がアフリカ人であるアート・ブレイキーは、自分のルーツや宗教を知るために西アフリカへ旅立った。一時帰国をはさんで、1948年から18か月に及ぶ長旅だ。滞在中、イスラム教を学び、キリスト教から改宗して、Abdullah Ibn Buhainaというイスラム名を授かっている。それで、帰国後、短縮して“Bu”というニックネームが付けられた。イスラム教に改宗するアフリカ系アメリカ人のミュージシャンは多かった。人種差別から身を守るためでもあったようだ。

 ところが、奇妙なことに、旅の主な目的がルーツと宗教だったからか、音楽目的なのでは?と聞かれると、ブレイキーは否定している。多くの人がそのことを書いているので、習慣のようになっていたのだろう。しかし、西アフリカから帰国後、ドラミングが急成長して力強く鮮明なスタイルになり、ドラムの側面を叩いたり、タムタムに肘をついて音程を変えたりするなど、アフリカ的な演奏法を取り入れるようになった。アフリカからの影響は誰の目にも明かだったのである。だから、否定したのは、あまのじゃく的な性格のせいではないかと思うが、どうだろうか。あるいは、ジャズはアメリカ独自の音楽であるのに、ジャズとアフリカを結びつけて考える人が多すぎることにうんざりしていたので、それも関係があるかもしれない。
 
 そうは言いながらも、ブレイキーはアフリカのリズムについて、語ることが少なくなかったようだ。ナイジェリアのイジョー族の集落に住んでいたとき、その日の活動報告を打楽器の演奏で行っていたというエピソードが非常に興味深い。おそらく、ブレイキーはその時、打楽器が言語であることを皮膚感覚で知り、トーキング・ドラム(あるいは、ドラム・ランゲージ)に覚醒したのだと思われる。どこで読んだかおぼえていないのだが、「ブレイキーのドラミングはホーンで歌っているようだった」と、ベニー・ゴルソンが語った記事があった。ドラムの演奏は、すべて何かしらの意味やメッセージがあるというドラム・ランゲージと考えれば、ブレイキーのドラムが歌っているように聞こえるのもうなづけるのである。

 

ヨルバ族の太鼓奏者 by wikipedia

 

ファンキーの源泉

 ファンキーはどこからやって来た? ファンキーといえば、ホレス・シルヴァーである。あの飛び跳ねるような瞬発的な演奏は、一体、どこからやって来たのだろうか。
 
 答えは、意外に簡単に見つかった。
 
 ホレス・シルヴァーの自伝『Let's Get to the Nitty Gritty:The Autobiography of Horace Silver by Horace Silver』の幼年・少年時代の章に答えがあった。
 
 ホレス・シルヴァーの両親は、ジョン・タヴァレス・シルヴァーとガートルード・シルヴァー。父親はカーボベルデ共和国からの移民で、母はコネティカット生まれのアイルランド系アフリカ人だった。コネティカットのノーウォークには、カーボベルデ人のコミュニティがあった。
 カーボベルデは西アフリカ沖の島国。15世紀から1975年までポルトガル領で、かつて、アメリカ大陸への奴隷貿易の中継拠点として栄えた。そのため、ポルトガルとアフリカの文化や民族の混合が進んだ。音楽においてもそれが顕著で、ポルトガルとアフリカの音楽がミックスされた音楽が生まれることになる。
 自伝にこんな記述がある。
 
「父はカーボベルデ民族音楽が好きで、バイオリン、ギター、マンドリン耳コピで演奏した。時々、土曜の夜には、キッチンでダンスパーティーを開いてくれた。父やカーボベルデ人の友人のサントス、ペリーらが演奏を担当し、カーボベルデの古い歌を何でも演奏して歌ってくれた」
 それで、カーボベルデの音楽を調べてみた。


 これが、ビンゴ!
 
 ホレスのファンキー・ジャズのルーツは、ここにあったとうなずけるような音楽がいくつも見つかったのだ。
 カーボベルデの音楽は、モルナ(Morna)が国民的な歌謡曲で、最も人気があるそうだ。モルナに素速いリズムが加わり、ダンサブルになったのがコラデイラ(Coladeira)。このコラデイラが速く躍動するリズムを持っており、上へ飛び跳ねるようなノリやアクセントやフレーズの断片が特徴的なのだ。

 ファンキーはこれですね。


 父親やカーボベルデの友人達が演奏する音楽で育ったホレスが、そこからファンキーを生み出したことを想像するのは容易いのだ。たとえば、「Beijo Cu Jetu/Cabo Verde Show」「Sodade/Nancy Vieira」などをyoutubeで聴いてください。もうホレス・シルヴァーの音楽なんだよね。父親がカーボベルデでおぼえた音楽はもっと昔のものだろうが、モルナからコラデイラへ進化を遂げたのは1930年代なのだ。
 
 ホレスの自伝には、ファンキーに関してこんな面白い記述もある。
「ジャズの用語で“ファンキー”というのは、ブルージーとかダウントゥアースという意味だ。私の音楽は、ジャズ評論家やファンから“ファンキー”と呼ばれる。そういえば、私がファンキーだと書いてあるダウンビート誌の記事を父に見せたことがある。父はそれを読んで、とても喜んでくれた。それでこう言ったんだ、“おまえがファンキーだって、どういうことだ? 毎日風呂に入っているじゃないか”」(笑)
(Funkyには「悪臭がする」「汗臭い」などの意味もある)」

 

ホレス・シルヴァーの自伝

なぜ、マイケル・ジャクソン?

 マイルス・デイヴィスマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」をカバーしたことは、大きな衝撃を与えた。なぜ、突然、ポップスのスーパースターのヒット曲をカバーしたのか。それまでマイルスはポップスの最新ヒット曲をレパートリーにすることはなかった。「枯葉」や「マイ・ファニー・バレンタイン」があるではないか――という意見もある。だが、すでにスタンダード・ソングとして知られていた曲だ。
 マイケルの場合は訳が違う。全米売上3000万枚を突破、「史上最も売れたアルバム」としてギネス世界記録に認定されたアルバム『スリラー』収録曲なのだ。その数年後にマイルスはカバーした。もう一曲、同時期のシンディ・ローパーの大ヒット曲「タイム・アフター・タイム」もカバーし、この2曲はその後のマイルスのライブで重要なレパートリーになった。そこには、ジャズの歴史を開拓してきた史上最大のカリスマの印象とは異なる姿があった。
 「ヒューマン・ネイチャー」の録音を含むマイルスの未発表発掘作品の解説に、ジャーナリストのグレッグ・テイトが「なぜそんなに音楽が変化するのか」と、マイルスに質問したエピソードが掲載されている。マイルスの答えはこうだ。「あなたが音楽を変えるんじゃない、音楽があなたを変えるんだ」「評論家がやれということを演奏するんじゃない、身体がプレイしろということを演奏する」 実に、マイルスらしい返答である。しかし、この説明で満足する人は少ないだろう。本意は他にもあると考える。
 
 マイルスはマイケル・ジャクソンやプリンスの音楽が好きでよく聴いていた。特に、プリンスのファンクのリズムやビートは、マイルスに大きな影響を与えた。そのことは80年代のマイルスの音楽を聴けば明らかである。また、『スリラー』をはじめマイケルの大ヒット作のプロデューサーは、朋友クインシー・ジョーンズである。だからといって、世界的なヒット曲をカバーしてポップに躍動するマイルスはイメージしにくいのだ。

 その本意を探っていると、これではないかと思わせるものを見つけることができた。本『Miles Davis:The Complete Illustrated History』にこんな記述がある。マイルスの史上最も有名なジャズ・アルバム『カインド・オブ・ブルー』に続いて、『スケッチ・オブ・スペイン』が世界的な反響を呼んだ現象について書かれた箇所だ。


「1960年当時、黒人がこのような音楽的な成功を収めるのは、驚くべきことであった。この成功は、25年後のマイケル・ジャクソンの衝撃と比較して初めて理解される。マイルスは世界中の美女から追いかけられるセックスシンボルになったのだ」 また、同書は、アメリカではマイケルを「キング・オブ・ポップ」と呼ぶことに抵抗がある人が多いこと、「キング・オブ・ジャズ」はポール・ホワイトマンでマイルスではないこと、それは彼らが黒人だからに他ならないと指摘する。マイルスが業績、カリスマ性、すべてにおいて「キング・オブ・ジャズ」であることは、誰の目にも疑いようがない事実である。


 こうした記述は、マイルスが黒人社会のみならず、米国音楽界を代表する真のヒーローであったことに改めて思いを至らせてくれる。マイルスの「ヒューマン・ネイチャー」のカバーは、黒人のヒーローであるマイルスが、同じく新世代の黒人のヒーローであるマイケルへ送った、親愛なる気持ちの表明なのであろう。マイルスは、マイケルの成功が、クインシーの成功が、誇らしく、うれしくてしようがなかったのだろう。

 

マイケル・ジャクソン by wikipedia

 

スタンダード・ソングの行方

 ジャズのスタンダード・ソングといえば、1920~50年代の映画やミュージカルから生まれた楽曲が多い。それとジャズメンが作曲した名曲を加えれば、スタンダード・ナンバーの大半を占める。
 1950年代の後半まで、アメリカのポピュラー音楽にはジャズ・ナンバーが多かった。ジャズ・シンガーの歌がヒット・チャートにランクインするのが普通の時代だった。当時、ヒット・チャートを席巻した、ビング・クロスビーフランク・シナトラナット・キング・コールなどの歌手、ベニー・グッドマングレン・ミラー、トミー・ドーシーなどのビッグ・バンドは、皆、ジャズですからね。少しオーバーな言い方をすれば、1950年代の後半までは、「ジャズ=ポピュラー音楽」の時代でもあったのだ。
 
 そういう状況は、ロックの時代になってから変わる。ジャズはヨコノリ(横ゆれ)ロックはタテノリだから、カバーしにくいのだ。それと、ロック以降は、シンガー・ソングライターの時代になったこともジャズ・スタンダードが減った要因といえる。ロックやシンガー・ソングライターは、自分が歌うために自分が作曲するので、そのアーティストの個性に合った楽曲ができる。ロック以前は、職業作曲家が不特定多数を想定して作曲することが多かった。ミュージカルや映画にしても、特定の歌手の個性に合わせて作曲されるような時代ではなかった。『ポーギーとベス』にしても、『サウンド・オブ・ミュージック』にしても、特定の歌手でなければ合わない楽曲ではないわけだ。
 タテノリ、特定のアーティストの個性に合わせた楽曲、これがジャズのスタンダード・ソングを少なくした要因だ。さらにいえば、ロックより、ソウルやファンク、ラテンのほうがジャズに編曲しやすい。ジャズと同じくアクセントが後ろにくるアフタービートであるし、また、シンコペーションのアクセントなどもジャズと親和性がある。
 スタンダード・ソングは生まれにくくなったかもしれないが、多彩な音楽ジャンルの優れた名曲がジャズとして演奏される傾向は、今も昔も変わっていない。また、1920~50年代のスタンダード・ソングと呼ばれる楽曲が、ジャズ・クラシックスとして演奏され続け、世界中で新しい解釈や名演が生まれる状況も、まったく変わっていないのである。

 

ジャズとポップスの歌唱スタイルを築いた

大スター、ビング・クロスビー by wikipedia